シン・ゴジラ感想(1)シン・ゴジラがまぎれもなくゴジラであると思う理由
はてぶではこんにちは。沙田と申します。
どこでもよかったのですが、シン・ゴジラで思ったことがいろいろあり吐き出したかったので、こちらのアカウントを取ってみました。
どうぞよろしくおねがいします。
さて、シン・ゴジラです。
すでに公開一週で大ヒットとなっていますが、私もすでに4回も見てしまいました。
大量の情報が詰め込まれていますので、いろいろな演出やセリフやテロップを確認したいこともありましたが、
何より、この物語をかみしめたい、あのショックをもう一度体感したい、ゴジラを入れたい(禁断症状)という衝動です。映画館にこんなに通ったのは初めてです。
ヤフーの感想などを漁ると、賛否両論あるなか、私は圧倒的絶賛を送りたいと思っていますが、
今回に関しては「否」意見を読むのがとても面白いです。
映画のレビュー(特にヤフーのは…)は、いつもの映画ですと、
自分と反対意見の書き込みなど往々にして「自分が受け入れられないものを一方的にけなす感じ」で読んでいてもう〜ん…納得できるものが少ないな…ということがあるのですが、
シンゴジの「否」意見は、わりと「ゴジラシリーズ」に対する愛ゆえの「否」が伝わってくるものが多く散見されるのが特徴と感じます。
それだけの歴史を重ねてきた存在なのだなと。
私はゴジラシリーズはこれまであまり触れずにきておりました。
(ゴジラ対モスラ、デストロイア、そして先々月に初代を見たばかり・・・という体たらく。ゴジラシリーズは1/10しかカバー出来ておりません。申し訳ない)
これでも一応女子ですし、そもそも怪獣プロレスにあまり興味が湧いてこなかったという単純な理由ではないかと思います。昭和ゴジラのある種の子供向け・子供っぽさ感を外野に感じていたりして、「食わず嫌い」の面もあったでしょう。
そんな私がいろいろと論ずることもおこがましいかもしれません。
ですが、それでも、様々なことを考えずにはいられないのです。そして、話したい。
ビルとビルの隙間にゴジラの影を探してしまいそうになるくらい、映画の外でもゴジラのことを思っていたくなる、ものすごい熱量を受け取ってしまった作品なのです。
なので、無知な意見ととられるようなことも大分生意気なことも書き連ねる可能性がありますが、素人が衝撃の発散をせずにはいられないんだなということで、生暖かく見ていただけますと幸いです。
以降こちらのブログではシン・ゴジラにおいては全てネタバレを含む内容とさせていただきます。
本編観覧後のブログ閲覧を強くお勧めいたします。
シン・ゴジラがまぎれもなくゴジラであると思う理由
ヤフーのレビューを見てよく散見されるのが「これはゴジラではない」「これはエヴァだ」という意見です。
なるほど、そういう印象を抱く人もいるだろうな、というのはわかります。
というのも、徹頭徹尾「庵野秀明」流の演出・シナリオ運びが色濃いからです。
細かいカット割り、乱発する明朝体テロップ、多すぎる情報量、衒学的な台詞回し、共通の音楽、構図、キャラクターたち、おたくチックな演出・作戦。他にも他にも。
「エヴァだ」とする意見には「ヤシマ作戦」と「ヤシオリ作戦」の類似を指摘する意見もあります。
確かに私も「あ〜ヤシマ作戦だコレ」と思いましたしね。
これって「エヴァだ」というより「庵野秀明だ」という方が正しいと思います。作家性が強すぎて、そのもっとも露出した「エヴァ」を連想してしまうというのが正しい。
ゴジラにエヴァを混ぜたんじゃなく、庵野秀明が作ったから庵野秀明流のゴジラになっただけ、というのが庵野作品をある程度カバーする私の意見です。
それに「これじゃゴジラ映画・怪獣映画ではなく災害映画じゃないか」というような意見も見かけました。
しかして、私は「シン・ゴジラ」はまぎれもなく、圧倒的に、「ゴジラ」である、という結論です。
初代ゴジラへの色濃いオマージューー還暦を経てもう一度この世に生まれた「災厄映画・ゴジラ」
シンゴジがゴジラの1954年版をリブートしていることは、事前情報や、実際本編でゴジラが二回上陸すること、全編通してゴジラと人間の戦いが描かれることもあって明らかです。
オープニングが明らかに「初代」を踏襲していますね。「初代」ファンの私は思わずじわっと涙が滲んでしまったほどです(見たの最近だろ!と自分でつっこんだので許してください…それくらい初代には感じ入るものがあったので…)
東映のロゴマークとともにゴジラの足音が3度鳴り、ゴジラのあの鳴き声とともに「シン・ゴジラ」のタイトルテロップが表示される。
映画の始まりからして、
「ゴジラの「最初」をこれからやります」
「ゴジラと日本のファースト・コンタクトがはじまります」
「ゴジラを生まれ変わらせます」
という明確な意思表示なわけです。
さて、ゴジラの1954年版を見ると、冒頭、嵐とともに大戸島に出現し、島民の家屋を踏み潰す姿の見えない「伝説の神・呉璽羅」は、さながら台風や地震のようです。序盤のゴジラはまさに「災害」 の化身です。
(話は逸れますが、この昭和30年代付近の大戸島の村や島民の様子、私の故郷の島の写真にすごく似ていますw 伊豆諸島はどこもこんな感じだったのでしょうが…そういうわけでマキ博士の「大戸島出身設定」、個人的にとてもグッとくるのです)
そして災害対策本部が設置されます。
人々は疎開の噂をし、やがてゴジラが上陸して東京を蹂躙し始めると、今度は一転して「戦争映画」の様相を呈します。焼き尽くされる東京に、「お父ちゃんの元へ行けますよ」と言って死んでいく母子の姿も。
放射線障害に脅かされる子供たちは、原爆被害者を連想させます。(もちろん第五福竜丸や原水爆実験などのモチーフも、初代の最も大事な要素です)
ほんの9年前まで戦争を経験していた、戦争の記憶が生々しい観客に、ゴジラは災害だけではなく、東京大空襲の記憶を蘇らせる戦争の化身となります。
「災害」+「戦争」+「核」・・・初代ゴジラを一言で表す言葉は時代を色濃く映し出した「災厄映画」だと私は思います。
シン・ゴジラはどうでしょう。
シンゴジは、怪獣という概念が生まれなかった世界という設定だそうです。ゴジラは全編通して「巨大不明生物」として扱われ、現代日本としての巨大生物への対応が延々と描かれます。
怪獣という概念が生まれた時からあった私たちには本来想像できない世界です。ゴジラの顔を見れば、怪獣同士が戦う姿をすぐ連想してしまいます。
ですが、シンゴジではそういう現代人を非常に上手くパラレル世界に連れていく工夫がなされています。
一番は「ゴジラに見えない姿でゴジラを上陸させた」ことでしょうか。非常に効果的です。
シンゴジを見るとまず、第二形態の姿に衝撃を受けます。目が大きく、ぐにゃぐにゃとやわらかそうで、エラから血を滴らせながら人間を追いかける気味悪い生物は、ゴジラに慣れ親しんだ私たちにはとてもゴジラとつなげることができません。この新怪獣とゴジラが戦うのだろうか?という予想をついついしてしまします。
そこで、立ち上がり進化するゴジラ。おまえがゴジラだったのか!!ここで、過去作のゴジラと分断されます。ミニラはいないのです。
呑川を遡上し川津波のように襲いくるゴジラ、圧倒的質量で都市をすりつぶしていくゴジラ、炎と放射線で見慣れた都市を、私の通勤路を焼き尽くすゴジラは、閣僚たちが5回くらいも発言する「想定外」という言葉もあいまって
「わたしたちがはじめて出会う想像を超えた脅威」として観客にインプットされるのです。
東日本大震災の、まだ生々しい記憶とともに。
それが、庵野監督のリブートにあたり、重要な時代性だったということです。
ゴジラの他のシリーズのどれをリブートするのでもなく、初代にこだわってリブートする。考えられないほどの脅威は本当に襲いくることをもう知っているわたしたちだからこそ、
すっかり「怪獣映画」の定型のようになってしまっていたゴジラのイメージを突き抜けて、
災厄の神として降臨するゴジラというその虚構が真に隣り合う脅威のように感じることができる。
今しか描けない、今しか感じることのできない映画になったのだと、私は思います。
ゴジラ映画をゴジラ映画たらしめるものは何か
ゴジラ公開とともに生まれた赤ちゃんが還暦を超える年齢になるほどの長い間、ゴジラは時代の変遷を色濃く映し出し、ゴジラ自身も変化を重ねてきたと思います。
それゆえに、いつゴジラと出会い、どのようなゴジラを愛したかによって、その人の中のゴジラは違ったものになっている。なにをゴジラに求めているのかは違う。
だから、こんなのゴジラじゃない、という意見はわかる。ゴジラに自衛隊の活躍を求める人もいれば、モンスター性を求める人もいれば、ヒーロー性を求める人もいる。着ぐるみじゃないゴジラはゴジラと呼べない人もいる。
けれどそれは「これはゴジラじゃない」ではなく「これは私の好きなゴジラじゃない」でしょうとも思うのです。
時代とともに移り変わること自体がゴジラの本質だとしたら、今描かれるゴジラはコレだ。
それが監督の答えなのではないかと思ったのです。
還暦を迎えて生まれ変わったゴジラは、今だからこそ真に迫った「災厄の神・ゴジラ」として、圧倒的に「ゴジラ」の本質に迫っていると、私は考えます。
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おもしろいと思ったことや感じた感情を乱雑に書きなぐったものですが、メモとして。
概ね好意的に感じた部分のみが抽出されているように思います。今見るとうろ覚えのまま書いているために結構映画と違っている部分もありますが、そのまま載せちゃいます。